カムチャツカの日本人商店について・日本ウラジオストク協会理事 堀江満智

カムチャツカというと一般に連想されるのは、雄大な自然や温泉、江戸時代に日本人漂流民が流れ着いた岬、漁業活動などかもしれないが、20世紀初頭にはペトロパブロフスク・カムチャツキーでも日本人の商店や交易など、ウラジオストクに始まる一連の極東ロシアとの近代的交流の一端があったのだ。
2015年9月にここを訪れる機会を得た私は、家族の足跡とともにそういう背景も知りたいと思った。私の家に1921年頃の「堀江商店ペトロパブスク出張所」の写真が遺されていて、「正面玄関に緒方領事、菊地商店主、堤出張員、ラザレフが立ち居り」との説明があり、ロシア的な木造家屋に雑貨販売という看板や後方に小さな教会も見える。

私の父、堀江正三(1898-1965)は東京外語ロシア語科を1919年に卒業すると、ウラジオストクで祖父がやっていた 堀江商店(食品製造、貿易)に戻ったが、自分で新天地を開拓すべくカムチャツカへ渡った。子供の頃からウラジオで暮らしロシアの文化や国民性も周知してい た正三は、商売だけでなく文化交流も夢みた。1918年には日本領事館ができ緒方領事が赴任していた。
しかし革命に続く「シベリア出兵」のさ中の厳しい情勢で長くは続かず、1922年にやむなく日本へ引き揚げた。他のもっと大きな商店も同様であった。

写真左: 堀江商店出張所の後方の教会(現在)
写真右: 堀江商店出張所の後方の教会(100年前!)



『地域史はこだて28号』の斎藤学論文によると「毛皮は日本毛皮と堤商会の独占状態、雑貨を売る菊地商会はこの地に長く当地事情に精通す、いずれも函館の 会社であった。ウラジオストックの堀江商店出張所も短期間存在した。(略)日本毛皮(株)からは小切手も発行されていたが、1922年赤衛軍兵士監視の 下、同社はカムチャツカ沿岸貿易を終え出張所を閉鎖した。」とある。私は今回同地を訪れる前に、ペトロパブロフスクの郷土史博物館にこの写真や資料を旅行社を通して送っておいた。すると博物館のスタッフが写真の場所を特定し(背景の教会が決め手になったそうだ)、「当時の日本人商店の新聞広告も見つけた、ぜひお会いしたい」との連絡をもらったので、私は胸躍らせて現地へ向かった。


ところが博物館ではその調べてくださったスタッフが長い休暇をとり、何も同僚に申し送りがなかったので、館長さんも初耳だとキョトンとされたのは予想外だったが、この件は後日、優秀な現地ガイドのユーリア・クリトヴァさんが博物館のその担当職員に会って史料を入手し、他の公文書館も訪ねてくださった。
この時は所在地のわかった堀江商店出張所の跡地(更地になっていた)と後方の教会を訪れた。教会は当時の雰囲気を残して改装され来歴の説明もあった。このこぎれいな木造の小さな教会の職員から地域史を研究している人を教えてもらった。
そして博物館からいただいた添付のような史料は、「カムチャツキー リストク(Kamchatsky Listok / Камчатский листок)」という新聞の1916年12月25日版(ちょうど100年前!)の記事で、「日本人商店の広告」「義勇艦隊のカムチャツカ航路の案内」だった。かつてのこの教会や漁労中の日本人の写真ももらった。 商店広告と航路案内は次の通りだ。
日本人商店は「エトオオ(江藤か?)裁縫師は男子スーツ、コートの注文を受けている」「コグロ美容室は午前7時から9時まで毎日営業」「オガワ時計師は金銀製品や時計、蓄音機、タイプライターを廉価で修理」「ミシナ(三品?)は家具修理工場」などと書かれており、ウラジオストクと同様、技術が売りの小さなサービス業だった。
義勇船隊の運航案内には、「オホーツク・カムチャツキー線は、3路線、往復、ウラジオストク―オホーツク海沿い―函館―ペトロパブロフスク等へ寄港。チュクチーアナドルスキイ線は3路線、往復、ウラジオストク―函館、ペトロパブロフスクに寄港。」とあり、函館とカムチャツカの往来は頻繁だったようだ。なおこの頃は国境線がカムチャツカ半島とシュムシュ島の間にあり、千島列島はすべて日本領だった。

また1917年の同紙の記事には「怪我をした戦士やその家族への寄付をした」として、日本人18名の名前があり、その中には上記の商店の苗字もある。ロシア人の戦士かどうか不明だが、商売の他にも自然な交流が生まれ、根をおろして暮らしていたのではないか。 どこで生きようと人情や生活要求は変わらない、そんな姿をもっと知りたいと思った。ユーリアさんのメールによると、「当時ロシア人の下僕として働いていた日本人はいたが、対等に商売をしていたということは、研究者も、ここで長く日本語を教えている日本人も知らなかった」そうだ。

確かにカムチャツカでは近代日露関係史(特に民衆史)への関心は研究者も一般の人も薄いように私も感じた。 クリル諸島(千島列島)には過去に先住民、ロシア人、日本人の間に悲惨な史実もあったし、シュムシュ島では第2次世界大戦中(直後)日ソの戦闘もあった。協力的な話ばかりではない。
しかし過去を正しく知った上で、未来志向の研究や交流をもっと盛んにすることは、北東アジアの隣人として大切なのではないか。私が偉そうに言うまでもないが。  
いわゆる「北方領土(南クリル4島)問題」の外交交渉での妥協点の一例として、近年「2島返還(引渡し)プラスアルファ」や「共同開発」(ロシア側の提案)がいわれている。 国家としては国境線の画定が第一義的に重要だが、同時に現地住民にとってはどんな共存共栄のかたちがあるのかを考えるべき時がきたら、一世紀前に名も無き民衆が国境など意識せず懸命に生業を営んだ事例を研究することには、多少は意味があるのではないだろうか。
そんなことを考えながら、私は中島みゆきの「地上の星」の歌詞を思い出していた。


草原のペガサス/街角のヴィーナス/みんな何処へ行った/
見守られることもなく/ 地上にある星を誰も覚えていない

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