2017/7/22 静岡県沼津市戸田(へだ)の戸田港まつりが開かれた。
伊豆半島西岸のこの村では1855年、最初の日ロ通好条約の結ばれたその年に、500人に及ぶロシア人将校と水兵たちが滞在した。乗艦ディアナ号を、地震と津波のために一挙に失ったためである。ロシアの士官たちは辛うじて残された設計図をもとに、新しい帆船の設計図をひき、日本側代表である川路聖謨を代表とする幕府高官の肝いりで江戸からさまざまの資材提供を受け、さらに土地の船大工や職人たちを動員して、スクーナー型の二檣帆船を戸田湾の浜で建造した。
この日の主要な行事として、戸田港の桟橋に近い広場から上記の宝泉寺まで(いつのころからかそれがプチャーチン・ロードと呼ばれるようになっていた)プチャーチン提督を先頭にパレードを行ない、宝泉寺の本堂で、住職が村滞在中に死亡した水兵のための読経を行なうのである。この行列では消防団員が先導してラッパ手が勇壮な演奏を行なう。
今も続く ロシア人との友好 ディアナ号沈没から160年(youtube)
Парад Путятина в японской деревне Хэда - история одного кораблекрушения / 戸田村のプチャーチン パレード(youtube)
資料提供 日本ウラジオストク協会会員 岩佐毅様
2017 年 7 月 23 日京都市四条河原町のレストラン「キエフ」(歌手・加藤登紀子さんの長兄が経営)において、岩佐毅著『落第社長のロシア貿易奮戦記』を語る講演会が開催されました。このレストランが定期的に行っている文化サロン「ロシア研究会」第 27 回例会のこの講演会には、ほぼ満席の約 50 名の聴衆が集まり大盛況のうちに幕を閉じました。
日ウ協会懇談サロン「中東の危機とトルコ、ロシア」 レジュメ
日本ウラジオストク協会・名誉会長/理事 廣瀬 徹也
オスマン帝国の興亡
続きは地図の下のリンクより。
カムチャツカというと一般に連想されるのは、雄大な自然や温泉、江戸時代に日本人漂流民が流れ着いた岬、漁業活動などかもしれないが、20世紀初頭にはペトロパブロフスク・カムチャツキーでも日本人の商店や交易など、ウラジオストクに始まる一連の極東ロシアとの近代的交流の一端があったのだ。
2015年9月にここを訪れる機会を得た私は、家族の足跡とともにそういう背景も知りたいと思った。私の家に1921年頃の「堀江商店ペトロパブスク出張所」の写真が遺されていて、「正面玄関に緒方領事、菊地商店主、堤出張員、ラザレフが立ち居り」との説明があり、ロシア的な木造家屋に雑貨販売という看板や後方に小さな教会も見える。
私の父、堀江正三(1898-1965)は東京外語ロシア語科を1919年に卒業すると、ウラジオストクで祖父がやっていた 堀江商店(食品製造、貿易)に戻ったが、自分で新天地を開拓すべくカムチャツカへ渡った。子供の頃からウラジオで暮らしロシアの文化や国民性も周知してい た正三は、商売だけでなく文化交流も夢みた。1918年には日本領事館ができ緒方領事が赴任していた。
しかし革命に続く「シベリア出兵」のさ中の厳しい情勢で長くは続かず、1922年にやむなく日本へ引き揚げた。他のもっと大きな商店も同様であった。
写真左: 堀江商店出張所の後方の教会(現在)
写真右: 堀江商店出張所の後方の教会(100年前!)
去る 2015/1/26 のゾーヤモルグン先生来日記念懇親会には、当会とユーラシア協会の呼びかけにより、27名もの方が集まりました。改めてモルグン先生の交友域の広さに驚かされた次第です。
最近の著作(2014年)が「ナウカ・ジャパン」で購入できるようです(ただ、在庫もっていないようで、注文後発注だそうです。ナウカによると 1 ヶ月待ちだそうですが、本当に手に入るかどうかはわかりません、ツテがあるかたは現地で直接購入することをおすすめします)。
ゾーヤ・モルグン ウラジオストクの日本人生活のモザイク模様 1860~1937年
Японская мозаика Владивостока: 1860-1937 (Картина жизни Владивостока на примере японской диаспоры).
アルセーニエフ博物館が出版元なので、もちろんウラジオに行ったときにも購入できると思いますが、何せ1000部しか発行していないので、早く手に入れておかないと無くなる可能性は十分にあります(いい本はすぐ売れ切れて、その後お目にかかれなくなる、ロシアでは良くある話しです)。
モルグン先生が当時を知る方々(居留してた方の遺族など)から聞き書きしたものをまとめた本です。
12/27 に新宿 NS ビルにて忘年会が執り行われました。 今回の忘年会が特別なのは、広瀬名誉会長の叙勲のお祝いを兼ねていることです。在アゼルバイジャン日本国特命全権大使(2002-2004 年)、ウラジオストク総領事(1996-2000 年)などを歴任された外交功労によるものです。当時、ソビエト崩壊直後の混とんとしていたウラジオストクでの仕事は良くも悪くも、最高であったと強調されました。
忘年会では、ウラジオストク、ロシア、ロシア語に関する話題が尽きません。なぜかというと、会には、学者、ジャーナリスト、学生、会社社長、元外交官などが集結しているからです。なんといっても、ロシア語の勉強方法について先輩方と話すことができることで、みんな苦労してますから、どんなに偉い方々と話しても大変フランクに答えてくれます。